精神科の実習で
もう一つ、忘れられない実習がある。それは精神科の実習だ。精神科は、一つのグループではなく、いくつかのグループと一緒に行った。ここでは他の実習とは違い、患者さんとコミュニケーションをとることを中心とした実習になった。
私は、実習で初めて精神に疾患を持つ人と関わることになった。そしてこの実習で学んだことはとても大きかったように思う。
まず、精神科病棟の特殊性にびっくりした。仕方がないことかもしれないが、私が行った精神科病棟は、一つの建物として独立しており、しかも玄関には鍵がかかっていたからだ。そして職員がそれぞれ鍵を持っていて、完全に外の世界とは遮断されているところであった。
さらに中に入ってまたびっくりした。時間が完璧に止まっているかのような印象を受けたのだ。精神科に入院している人は、驚くほど入院期間が長い患者さんが多く、10年間入院している、という患者さんが珍しくない。しかも完全に外部から隔離された世界であるため、外部からある日突然入ると、まるで時間が止まっているかのように感じてしまった。
例えば、患者さんが聞いている音楽がかなり古かったりする。また私が小学生の頃聞いていた歌などを繰り返し聞いている人がいたり、患者さんが好んで食べているお菓子などが、昔はやったお菓子だったりするのだ。とにかく一種独特の世界であることは間違いなかった。
そして、一番衝撃的だったのは、精神科の患者さんと接してみて、普段の自分のコミュニケーションのやり方が通じない、ということだった。
例えば、私が外科の病棟に実習に行き、患者さんを受け持つとする。普通の大人の人であれば、未熟な学生の私の下らない会話にも応じてくれ、普通のコミュニケーションが成り立つ。しかし、精神科ではそれが通じなかったのである。今まで生きてきた中で、これは初めての経験であった。
精神的な疾患を患う人というのは、私が思うに、心がきれいすぎる、というか純粋すぎるのではないかと思う。要するに心が丸裸に近いのだ。だから、色々なことに傷つき、精神を病んでしまうのだ。ちょっとくらいずるいほうが人間傷つかないのかもしれない。
私たちは、知らない人と接する時どうするかというと、とりあえず当り障りのない会話をして、笑顔を振り撒いたりもする。ましてや実習生である。患者さんと接する時は、言葉が悪いかもしれないが、無意識のうちにその人に気に入られるような態度をとっていた。
しかし、精神科ではその態度が通用しなかったのである。多くの患者さんが自分の世界で生きていた。だから自分の世界に入ってしまっている時は、私たちが何を言おうとまったく反応してもらえないこともあった。
もしかしたら、自分に正直に生きているのは彼らのほうかもしれない、とその時私は感じた。彼らは、自分の世界で生きているので、私のように他人に取り入る必要もないので、答えたくない時には答えてくれないのである(聞こえてない可能性もあるが)。これらは実習の時に私が感じた気持ちである。あくまでも私の個人的な意見であるので、その辺はご了承ください。
すると、私のうわべだけのコミュニケーションは空しく、患者さんから私自身に跳ね返ってくるのである。そして、“私はなんていやらしい人間なんだろう”と、初めて自分自身のうわべだけのコミュニケーションに気づいたのであった。まさに、“他人は自分を映す鏡である”、ということをある意味で実感したのであった。
普段の大人の世界で生きていると、ある意味一般常識的な大人の感覚で見えなくされている大人のずるい部分が、精神科の患者さんの純粋さを通して、私にそのことを見せてくれたといった感じであった。
だから、精神科の実習では、私のように落ち込み、自己嫌悪に陥る学生が多かった。そこは学校の先生たちもプロである。最後にはフォローがあった。
精神科実習の最終日、実習に行ったメンバーみんなで話し合う機会を設けられた。そして、何を感じたかを話しあったりするだけでなく、大きな画用紙の真ん中に自分の名前を書き、それをメンバー全員に回すのである。そして、みんなそれぞれの人の紙に、その人の良いところを書き込んでいくのである。こうして、自分はダメな人間なんだ、と思った学生も、皆からのメッセージを見て、再度救われた思いがするのである。
まさに、精神科の実習では、自分の欠点を理解し、受け入れ、そして自分自身を受容していく、といった過程であったような気がした。精神化の実習最終日、帰り道が感動で妙にすがすがしく感じたのは、そのせいかもしれない。
こうして、精神科実習をはじめ、10ヶ月の実習を通して私たち看護学生は、患者さんから沢山のことを学び、少しずつ成長していくのであった。
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